2011.11.07 Monday
実体ではなく、知識の方をみてしまう
趣味を聞かれると、少しきばって、
「座禅などを」
とお答えさせて頂くことがあります。すると、
「座禅って、無になるんですよね?」
とお返し頂くことが多ございます。
...
話を合わせて下さることは大変ありがたいことです。
ただ、「座禅=無」というのは、「投資=一攫千金」もしくは「ニッポン=フジヤマ、サムライ、スシ、ゲイシャ」的な捉え方ではないかなと感じたりもします。
私たちは、座禅に限らず、対象に触れた時、対象そのものを見るのではなく、その言葉から引き出される自分の知識の方を見てしまいます。
"それ"を実体として捉えるのではなく、自分の知識の方を実体として扱い、知識に対する解釈について言葉を述べます。自分の知識なんて正しいか正しくないかもわからないのにも関わらず。
その時、実体はおいてけぼりです。
資産運用、投資についても同じことが言えます。
私たちは、投資対象や価格をありのままにみるのではなく、自分の知識に目をやり、さらに欲というバイアスをかけながら考察し、論じてしまいます。
もし、ありのままの実体の方に目を向けられたならば、それ即ち「禅している」ということではないかと思います。
「座禅などを」
とお答えさせて頂くことがあります。すると、
「座禅って、無になるんですよね?」
とお返し頂くことが多ございます。
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話を合わせて下さることは大変ありがたいことです。
ただ、「座禅=無」というのは、「投資=一攫千金」もしくは「ニッポン=フジヤマ、サムライ、スシ、ゲイシャ」的な捉え方ではないかなと感じたりもします。
私たちは、座禅に限らず、対象に触れた時、対象そのものを見るのではなく、その言葉から引き出される自分の知識の方を見てしまいます。
"それ"を実体として捉えるのではなく、自分の知識の方を実体として扱い、知識に対する解釈について言葉を述べます。自分の知識なんて正しいか正しくないかもわからないのにも関わらず。
その時、実体はおいてけぼりです。
資産運用、投資についても同じことが言えます。
私たちは、投資対象や価格をありのままにみるのではなく、自分の知識に目をやり、さらに欲というバイアスをかけながら考察し、論じてしまいます。
もし、ありのままの実体の方に目を向けられたならば、それ即ち「禅している」ということではないかと思います。






